「斎藤宗次郎・雨ニモマケズ」のお話し [キリスト者(クリスチャン)]

この記事は、過去にこのブログに掲載した記事の再掲載となります。
◯次の文章は、斎藤宗次郎(さいとう そうじろう)という人が書いた『二荊自叙伝(にけい じじょでん)』という自伝に書かれている文章です。
「西郊に新築せる農学校を訪うて宮沢賢治先生に会うた。(中略)氏は予を款待して呉れた。椅子を取出して予をして之に倚らしめた。更に蓄音器によってピアノの数曲を予に供したのであった。予は例の如く冥目拱手して氏と共にベートーベンの第四シンフォニーに心耳を傾倒して恍惚たるものがあった。」
◯現代語に訳すと
「西の郊外に新しくできた農学校を訪問して宮沢賢治先生にお会いしました。(中略)先生は私を手厚くもてなして、椅子に座るように勧めてくれました。更に蓄音機(ちくおんき)でピアノの曲を数曲聴かせてくださいました。私は目を閉じて両手の指を組んで、先生と共にヴェートーヴェンの交響曲第4番に耳を傾け心を奪われうっとりしていたのでした。」
この文章を読む限り、宮沢賢治と斎藤宗次郎が親しい関係であったことが分かる内容ですね。今日は長くなりますが、斎藤宗次郎のご紹介をしたいと思います。

宮沢賢治といえば、『雨ニモマケズ』という詩が学校の教科書にも登場するくらい有名です。暗記している方もいると思いますが、ここに全文をご紹介します。
「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
わたしはなりたい 」

【原文】
「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」

この詩の最後に「そういう者に、私はなりたい。」と書かれていますが、この「そういう者」の実在のモデルが存在したことをご存知でしょうか?その人こそ冒頭でご紹介した斎藤宗次郎です。宮沢賢治のこの詩は、斎藤宗次郎のことを詩にしているのです。斎藤宗次郎(1877年~1968年)は、キリスト教無教会派のクリスチャンです。岩手県東和賀郡笹間村(現在の花巻市)で、曹洞宗のお寺の三男として生まれました。小学校の教師になり、何かのきっかけで聖書を読むようになり、1900年の冬に洗礼を受けました。この時は、カナダのキリスト教プロテスタントのバプテスト派の宣教師から洗礼を受けていますが、やがて東京に出てからは、内村鑑三に傾倒してキリスト教無教会派の信徒になっています。

この時代は、キリスト教がまだ「耶蘇教(やそきょう)」となどと呼ばれ、人々から迫害されていたころでしたので、宗次郎はクリスチャンになった日に親から勘当されたそうです。町を歩いていると「やそ!」とあざけられ、何度も石を投げられたそうです。彼はいわれのない中傷誹謗を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めることになります。また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と言われ腹を蹴られ、腹膜炎を起こして数日後9歳という幼さで帰天しました。(帰天(きてん)とは天国に帰ること、つまり死亡したということです。)

そのような悲惨な目に遭っても、彼は信仰を捨てずに生き続けました。ただ、宗次郎にも迫害(偏見)される一因はあるという研究者もいます。それは、養父の一周忌をキリスト教式で行っただけでなく、仏教の法事、神道の祭礼などを一切やめると親戚や近所の住民に一方的に通告し、一周忌に集まった人々には、もちろん酒などは一滴もふるまうことない、町の祭礼の寄付金は断り、神社の社殿の改築費の割り当てにも一切応じなかったそうです。そのように、その土地の旧来の慣習や風習に従わず、まったく妥協しないところがありました。

こんな頑なな態度をとっていたら、町の人々から反感をもたれるのは当然だろうと思いますし、このような時代に原理主義的な考えでいたら、融通がきかない頑固な人ということになってしまいますね。そのくらい “ 表裏のない真正直な性格で生き方に下手な人 ” だったのだと思います。私は、そこまで徹底した信仰にただただ自戒するのみです。教師を辞めることになった宗次郎は、朝3時から新聞配達をして生活をするようになり、重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝3時に起きて夜遅くまで働き、必ず聖書を読んで祈ってから寝るという生活を続けました。

不思議な事に、このような激しい生活が20年あまりも続いたにもかかわらず、彼の身体は持ちこたえていたそうです。これはもう主イエス・キリストの恩寵に守られていたからだと思います。また、自分の娘を失ったにもかかわらず、冬になって雪が積もると、彼は小学校への通路を雪かきをして道を作っていたそうです。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。また、新聞配達の帰りには病人を見舞い、励まし、慰めました。宗次郎の生き方は、第一にイエス・キリスト、第二に周りの人々、最後に自分という優先順位をつけていたとのことです。

やがて彼は、東京に引越しすることになったのですが、迫害していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、そして町中の人々が彼を見送るために駅に集まりました。人々は宗次郎がいつもしてくれたことに、感謝をしに駅に見送りにやってきたのでした。その人々の中に宮沢賢治もいて『雨ニモマケズ』の詩を創ったといわれています。宗次郎は、町のみんなから迫害され、愛娘が殺されたにもかかわらず、主であるイエス・キリストを信じ、そしてイエス・キリストの教えである「隣人への愛」と「人への赦し」を自らが実践したのです。これは誰でもできることではありませんね。1968年(昭和43年)に90歳で帰天されましたから、私が小学校4年生の年です。是非お会いしたかったですね。このような人を聖人として崇敬したいと思います。
428437362_large.jpg
ところで、斎藤宗次郎の自伝『二荊自叙伝』ですが、この「二荊(にけい)」について説明いたします。まず、荊(いばら)の意味ですが、これは、イエス・キリストが磔刑される時、荊の冠をかぶせられたのを「一」、つまり一番目とし、宗次郎もイエス・キリストに倣い、自分への荊の冠を「二」、二番目とする考えから二荊としたそうです。荊で編んだ冠ですから、頭にかぶれば痛いのは当然ですね。イエス・キリストの磔刑の場面を画いた絵画には頭から血が流れている様子が画かれています。これを宗次郎は、イエス・キリストの痛みを自分も同じように感じて同じ苦難を受けることで、主であるイエス・キリストと共にいるのだという想いを込めて「二荊」と名付けたようです。岩波書店から上下2巻で出版されましたが現在は絶版になっています。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。