新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第37〜第38節 [聖書]

「『裁いてはならない。
そうすれば、あなた方も裁かれない
人を罪に定めてはならない。
そうすれば、あなたがたも罪に定められない。
赦しなさい。
そうすれば、あなた方も赦される。
与えなさい。
そうすれば、あなたがたも与えられる。
押し入れ、揺さぶり、溢れるほど升の量りをよくして、
あなたがたのふところに入れてもらえる。
あなた方が図るその升で、
あなた方も量り返されるからである。』」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
(マタイによる福音書では第7章・第1~第5節です。)

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、ルカによる福音書の中で「人を裁くな」という見出しが付いているところです。
自分に対して「罪を犯した人を赦しなさい。」ということです。イエス・キリストの教えは、「隣人への愛」と「人への赦し」です。この聖句は、人を裁くことではなく“赦すこと”を説いています。イエス・キリストは、人が人に寛大であれば、神様はその人が寛大である以上にはるかに寛大であるということです。どんな人でも人生において必ずや「赦してもらいたい。」と願う時がやってきます。その時に赦してもらいたいのなら、自分も普段から人を赦すべきなのです。

かつて、知ってか?無意識か?自己顕示欲か?分かりませんが、「自分がルールブック」あるいは、「自分が裁判長」と思っている、いや、思い込んでいる間違った正義感の強い方がいました。ですから、何かあるとすぐ人を裁くのです。事実、裁かれた犠牲者はたくさんいます。人に対する憐れみや慈しみは一切ありません。自分の考え、行いはすべて正しいと思っているものですから、誰も注意もしなければ、諫めもしません。諫言する立場の人も何も言わなかったですね。言えば<倍返し>になって帰ってきますからね…………嫌な思いをしたくないのが一般的な人間なのです。

ですから、今日のこの聖句は理解できないでしょう。しかし、イエス・キリストは、このような人のためにこそ祈らなければならないと説いています。もちろんその人を赦した上での祈りです。そうです、誰も何も真実を言ってもらえないというのは、本当は哀れな可哀そうな人なのです。そのような人を救うために祈るのです。それに、聖書の別のところでは、「裁きや報復することは神のすること」と教えています。神様が、いかに人間社会に平和を与えようとしているかよく分かる聖句ですね。

ところで、現在の日本では「裁判員制度」があり、私たち信徒はこの聖句との関係で悩むことになると思います。各人の良心に従って判断することになると思いますが、裁判員を辞退することは基本的にはできないことになっています。ただ、法律等で認められた事情がある場合は辞退することは可能です。しかし、宗教上の信条で辞退することは可能なのか?正解はわかりません。私は、死刑制度の廃止に賛成でもあり、裁判員は辞退することにしています。それでも選任されれば、過料を支払ってでも不参加を選択することになります。それは、私には信仰の確固たる信条・信念があり、聖書にある聖句を人生の使命としているからです。
参考:日本カトリック司教協議会・社会司教委員会編「なぜ教会は社会問題にかかわるのかQ&A」のQ30「裁判員制度について………」
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