「玉姫公園」のお話し [支援活動日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与り、終わってから「玉姫公園(たまひめこうえん)」に行ってきました。玉姫公園は、東京都台東区清川二丁目13番地にある都市公園で、山谷と呼ばれる地区の一部です。子どものためのすべり台などの遊具はありますが、現状はホームレスの皆さんの居住地となっています………ただ、すべり台などの遊具は誰でも使用できる状態になっています。この公園は、漫画「あしたのジョー」で、主人公の矢吹丈が丹下段平と出会った場所として、あしたのジョーファンには有名な公園となっています。現在は、ホームレスの皆さんの居住地となっていることから、ボランティア団体などの支援団体による「炊き出し」や山谷日雇労働組合の「越年・越冬闘争」が行われます。
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公園は、高いフェンスに囲まれ、普段は鍵がかかっている運動場とその周りにある公園に分けられています。運動場は昨日まで3日間にわたり夏祭りが行われていたようで、たくさんの方が後片付けをしていました。ホームレスの皆さんがいらっしゃる公園部分をiPhoneで撮影しましたが、あまり中に入って撮影すると、皆さんからクレームがきますから公園の外から撮影しました。ブルーシートでテントを造って寝泊まりしています。私が見たところ15人ほどいらして、現金化できる空缶が集積されていました。
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◯写真はジョーの人形です。私が活動している「山谷夜回りの会」活動の中心地となる「いろは商店街」を土手通りに出たところにあります。「あしたのジョー」は、山谷辺りの人々を描いています。この土手通りを渡ったところが、江戸時代の遊郭である「吉原」があった所です。
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「山谷(さんや)」という地名を、今でも私たちは親しみをもって使っていますが、1947年から1966年までは、「浅草山谷町」と呼ばれていました。しかし、「山谷」という言葉は、1966年に住居表示制度の導入によって消滅し、現在の地図には載っていません。山谷と呼ばれていたところは、現在の日本堤一丁目・二丁目、清川一丁目・二丁目、東浅草一丁目付近です。ちなみに、山谷辺りのことを「ドヤ街(どやがい)」と言いますが、これは、低料金で泊まれる宿(やど)がたくさんある街ということで、「やど」を逆に読んで「どや」と隠語にし、ドヤ街と呼ぶようになりました。今では少なくなりましたが、1泊(素泊り)で、だいたい2,000円〜2,500円です。低料金ですから、コロナ渦前は海外からのバックパッカー(低予算で個人旅行する旅行者のことで、バックパック(リュックサック)を背負って移動する者)に大人気でしたね。
◯写真は、現在の宿(やど)です。冷暖房完備・テレビ付きで2,200円です。安いので、コロナ渦前は外国人の旅行客(バックパッカー)にも人気でした。写真は、2020年5月20日(木)の支援活動中(夜)に撮影したものです。今日撮るのを忘れてました!( ̄◇ ̄;)
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山谷と呼ばれて親しまれてきた地域は、第2次世界大戦後急速に復興発展していった東京を身をもって支えた町でした。近くに、当時日本の北(北海道・東北)の玄関口である国鉄上野駅があり、北海道・東北地方から出稼ぎにきた人たちや戦争被災者などの労働者を受け入れ、戦後の長い間、東京圏における日雇い労務者の生活基盤となって活気がありました。1968年に岡林信康氏が作詞・作曲を手がけた『山谷ブルース』という当時大ヒットした歌謡曲がありますが、その歌詞の一節に、「人は山谷を 悪く言う、だけど俺達いなくなりゃ、ビルもビルも道路も出来ゃしねえ、誰も解っちゃくれねえか。」とあります。

しかし、バブルと呼ばれた急進的経済の爛熟期が過ぎつつあるのが予感され始めた1980年代後半頃から景気は後退し、日雇い仕事に恵まれず、路上で暮らし始める人々が少しずつ目立ち始めました。1990年代中頃になると、労働の雇用環境も、従来の日雇い雇用とは異なる方向へ変質化し、不況と雇用環境の変化の大きな影響を受けて、路上生活者の人々はさらに増え続けて今日に至っています。現在、政府や地方行政レベルでのさまざまな施策が、こうした人々を支援し救済する目的で試みられていますが、コロナ渦があり、ロシアのウクライナ侵攻があり、こうした人々の数は、少なくなっているとは思えないですね。

私が「山谷夜回りの会」活動でホームレスの皆さんを支援しているところは、日本堤一丁目・二丁目辺りとなります。活動の中心地は、約250mもある「いろは商店街」です。8月を除く毎月第一木曜日と第三木曜日(19時30分から)が活動日となります。私が「山谷夜回りの会」活動に初めて参加したのは10年前で、当時はアーケード商店街で屋根がありました。でも、約8割のお店がシャッターを下ろしたままで営業していませんでしたので「シャター商店街」と呼ばれていました。ホームレスの皆さんにとっては雨・露を凌げるということで、夜になるとシャッターの前に段ボールで寝床を囲って寝るという状況でした。
◯「いろは商店街」の今(写真上)と昔(写真下)です。数年前に商店街の屋根を取っ払いましたから、まだ商店街組合はあるものの、普通の街並みのような景観になりました。一部の人はシャッターの前にブルーシートでテントを造って寝泊りしていますが、ほとんどのホームレスの方は、隅田川沿いの橋などに移りました。
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【バックパッカー(英語: backpacker)】
低予算で個人旅行する旅行者のことで、バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられました。日本語では「パッカー」又は「バッパー」と略すこともあります。一般的な旅行者との違いとして、①世間的な休暇よりも長い期間に亘ること、②バックパックを使うこと、③移動に公共交通機関を利用すること、④高級なホテルではなく、ユースホステルや安宿を利用すること、⑤観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことにも興味があることなどが挙げられます。
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