旧約聖書:創世記・第38章・第1〜第10節 [聖書]

「そのころ、ユダは兄弟たちと別れて、アドラム人のヒラという人の近くに天幕を張った。 ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入った。 彼女は身ごもり男の子を産んだ。ユダはその子をエルと名付けた。彼女はまた身ごもり男の子を産み、その子をオナンと名付けた。彼女は更にまた男の子を産み、その子をシェラと名付けた。彼女がシェラを産んだとき、ユダはケジブにいた。
ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。『兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。』オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。」
『新共同約聖書』から

この聖句(聖書の言葉)が、「オナニー(自慰)」の語源です。
オナンは、兄であるエルが早死にしたため、その代わりに子孫を残すべく兄嫁タマルと無理矢理に結婚させられたのですね。これを「逆縁結婚」といいます。でも、オナンは兄のために子を作ることを嫌い、性交する時は精液を膣の中に放出せず、射精寸前で陰茎を抜き精液を地に漏らして避妊をしようとしました。しかし、この行為は神様の意志に反するものとされ、オナンは神様によって命を絶たれてしまうことになりました。しかし、オナンが兄のために子を作ることを拒否したのは、兄嫁に子ができてしまうと、父の遺産がその子のものになってしまうためでした。兄嫁に子がなければ、遺産は次男であるオナンのものとなるはずだったと、この聖句は、一般的に「血統維持」を強調した物語であると理解されているようです。

オナンがしたことは膣外射精ですが、この聖句に出ているオナンという名前から語義が転じ、生殖を目的としない射精行為を「オナニー」という言葉が使われるようになりました。これは、自慰それ自体が罪だとされたのではないという見方もありますが、カトリック教会としては、自慰行為そのものを悪性と認める立場です。
『カトリックの教え』カトリック中央協議会、2003年4月8日発行の356ページに次のとおり書いてあります。
「それは人間の性的な成長段階における自然な現象としての側面を持っており、それを極端に罪悪視することによって性能力を抑圧する危険性もあります。そのような行為に対する倫理的な判断のためには、その人の意志と動機又はその習慣化の程度なども考慮する必要があります。ですから、自慰行為の悪性を認めるにしても罪悪感だけを抱かせてはなりません。むしろ、他者との出会いへ向けて開かれている性能力の面を重視する必要があります。」

私は、キリスト教において自慰行為が罪あるいは悪性とされるのは、次の聖句(イエス・キリストの言葉)を根拠としているからではないかと思います。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第27~28節には、次のとおり書かれています。
「あなた方も聞いているとおり、『姦淫してはならない』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
しかし、この言葉が本来意味しているのは、「だから自慰行為は姦淫したも同然だから厳しく罰すべきだ。」というのではなく、「情欲を抱かない人などいないのだから、神の前では罪人という点では同じであるが、悔い改めて神に立ち返りなさい。回心して神を求めなさい。」ということだと解釈します…………勝手な解釈でしょうか?それとも言い訳になるのでしょうか( ̄▽ ̄;)
余談ですが、キリスト教も、神道も、仏教も、イスラーム(イスラム教)にも、どの宗教にも「教義」という、いろいろな”教え”や”決まり事”があります、キリスト教の各教派も同じですが、中でもカトリック教会は、実際は案外ゆるやかです。これは「寛容で適応性がある」ということですね。決していい加減ではありません!念のため。
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