新約聖書:ガラテヤの人々への手紙・第6章・第7〜第10節 [聖書]

「思い違いをしてはいけません。神は人から愚弄されることはないのです。人は自分の蒔いたものを刈り取ります。自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊という畑に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。倦まず弛まず善を行いましょう。飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。ですから、機会のあるごとに、すべての人に、特に、信仰によっていわば家族となった人々に対して、善を行いましょう。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

このブログに半年前に掲載した聖書の聖句(聖書の言葉)を再掲載いたします。再掲載の理由は、最近「自分で撒いた種は、自分で刈り取る。」の言葉どおりになったからです( ̄◇ ̄;) つまり、悪い種を撒いた(悪いとまではいかないにしても、余計なことをした)わけです。そうしたら、悪い実(悪い結果)となって、自分で刈り取る(責任を取る)ことになったのです(⌒-⌒; )

新約聖書には、「種蒔き」と「刈り取り」についてのイエス・キリストのたとえ話しがよく出てきます。イエス・キリストが説かれるのは、「良い実を得たいのであれば、良い種を蒔きなさい。」、「豊かな収穫を得たいのであれば、良い種をまきなさい」ということです。結局、良くも悪くも 「蒔いた種は刈らねばならない」わけですから、良い種を蒔きましょうということですね。

作物を収穫する「刈り入れ」は、大きな喜びの時です。畑を耕して種を蒔き、水や肥料をやり、草取りをして世話をし、やがて実が豊かに実る。それを刈り取る=収穫するのです。収穫は、これまで汗水流して働いた労苦の実りを刈り取る時であり、労働の成果を目に見えるかたちで手にする最高の時です。良い種を蒔いたのであれば、良い実をつけ豊かな収穫を得ることになるわけです。

ナスビの種を蒔いたらキューリがなった!Σ( ̄ロ ̄lll) ということはありませんね。ナスビの種を蒔けばナスビが生ります。同じように愛の種を捲けば、愛の芽が出て、その愛が成長して、平和を刈り取ることができます。その反対に、憎しみの種を蒔けば、憎しみという芽が出て、その憎しみが成長して、戦争を刈り取ることになります。仏教で説くところの「因果応報(いんがおうほう)」と似ていますね。

これは、「種蒔き」と「刈り取り」のたとえ話しですが、イエス・キリストが説く<種蒔き>とは、人々に神のみ言葉(教え)を蒔くことであり、福音を告げ知らせることであり、善き行いをすることでもあります。<刈り入れ>とは、種蒔きの結果の報いであって、イエス・キリストが再臨する時に行われる、永遠の安らぎが与えられる天の国に昇る者と燃え盛る火が尽きることのない地獄に落ちる者とが選別される「最後の審判」を指しています。ですから、私たち信徒は、日々において神のみ言葉を実践し、福音を告げ知らせ、善き行いを実践しなければならないのですね。

他にも種蒔のたとえ話しはたくさんありますが、ここでは次の3つを掲載いたします。
〇新約聖書:コリントの人々への第一の手紙・第19章・第6節
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第26~第29節
「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第30~第32節
「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」

【因果応報】
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。仏教の用語で、行為の善悪に応じて、その報いがあることを意味します。現在では悪いほうに用いられることが多いですね。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのことです。
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