聖フランシスコ・サレジオのことば(第4日目) [聖人・福者・尊者]

「何事も単純に考えなさい。
心の平安を勝ちとろうとあくせくしてはいけない。
あわてなければ、心は自然と静まえる。」

聖フランシスコ・サレジオのことは、「聖フランシスコ・サレジオのことば(第1日目)2020.3.28」をご覧下さい。
この言葉は、仏教、特に禅宗で教えるところの“平常心是道(へいじょうしん これみちなり)”と共通するところがあります。学生時代に「東洋倫理学思想史」の授業で学んだことですが、これは、禅語として宋代の禅匠、趙州和尚と師の南泉普願禅師の問答に由来しています。このブログに2回目の掲載となります。

 趙州問う「如何なるか是道(いかなるかな これどう?)」 
 南泉曰く「平常心是道(へいじょうしん これどう!)」

趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(道とはどんなものでしょうか)と問いました。
その答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)でした。
(ここでいうところの道とは、仏道ということです。)
趙州和尚が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うと、
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えました。
趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問いました。
これに対して南泉禅師は、「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答えました。さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答えたましたので、趙州和尚はその答えを聞いて悟ったということです。

このままじゃいけない、何とか落ちつこうと泰然(たいぜん)としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくありません。むしろ上がり緊張しているその心こそ、今の自分の真実の姿であり、ありのままの心なんだ、ということを素直に認め受け入れることですね。
ありのままの心、ありのままの姿を認め受け入れるとき、そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、障りとする緊張感はなく、平生の平常心のみとなります。とは言っても「平常心」は普段のそのまま、現在の煩悩(ぼんのう)心のそのままではいけないのです。
曹洞宗開祖である道元禅師の言われる「ただわが身も放ち忘れて、仏のいへになげいれて、仏の方より行われ、是に従い行くとき、力も入れず心も費やさずして、生死を離れてほとけとなる。」ということです。要は自然の運行、自然のままに一切を仏にお任せするという、その心そのままが平常心といわれています。
キリスト教も、主である神様に一切をお任せし、後は一心に祈ることです。キリスト教も仏教も共通するところはたくさんありますね。

【泰然】
落ち着いていて物事に驚かないさま。「―として構える」「―たる態度」

【煩悩】
仏教で、心身を悩まし、乱し、煩わせ、惑わし、汚す心の作用のこと。人間の苦の原因とされる。煩悩の根源は貪(とん)・瞋(しん)・痴の三惑で、それに慢・疑・悪見の三つを加えて根本煩悩ともいう。
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