道元禅師のことば [非キリスト者(ノンクリスチャン)]

今日の言葉は随分と難解です。次の原文は難しいですが一応は最後まで読んでくださいね。後で現代語訳いたします。

「たとひ仏というは、我がもとより知りたりつるようは、相光光明具足し説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知りたりとも、知識(師匠のこと)若し仏というは蝦蟇蚯蚓(がまみみず)といはば、蝦蟇蚯蚓を是ぞ仏と信じて日此(ひごろ)の知解を捨つべきなり、この蚯蚓の上に仏の相光光明、種々の仏の所具の徳を求むるも猶(なお)情見あらたまざるなり。只当時の見ゆる処を仏と知るなり。」

道元(どうげん)禅師は、鎌倉時代初期のころの禅僧で曹洞宗の開祖です。同宗旨では高祖と尊称されています。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には「道元禅師(どうげんぜんじ)」と呼ばれています。「徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある。」という修証一等、只管打坐の禅を伝え、その著書である『正法眼蔵』は、日本の倫理学者である和辻哲郎やハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めました。

私は、学生時代は倫理学専攻でしたので、難解な『正法眼蔵』の原文に挑戦しましたが、遅々として進まず、途中で挫折したことを覚えています。私には難しかったですね。しかし、道元禅師の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献といわれている『正法眼蔵随聞記』は持ち歩いて愛読しましたね。古田紹欽訳注の『正法眼蔵随聞記』角川文庫版です。今でも持っていますが、本当に貧乏学生でしたので文献で文庫本などになっているものはよく読みました。

「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」は、道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘が記した曹洞禅の語録書です。懐奘和尚は、約20年間にわたり師である道元禅師に随侍し、道元が折にふれ弟子たちに説いた言葉や、道元との問答を克明に筆記して残しました。それを懐奘和尚が亡くなった後、弟子たちがまとめたものなのです。

今日の言葉は、難しいですがもう少しお付き合いくださいね。
この言葉は、私が正法眼蔵随聞記を読んで最初に感銘した箇所です。これを現代語訳すると、「私たちは仏といわれたら、お釈迦様や阿弥陀様のようにすばらしくすごい方だと思ってしまいますが、師匠が『仏とはカエルやミミズのことである。』と言われたならば、カエルやミミズこそが仏であるということを信じて、今までの仏に対する認識を捨てることです。しかし、そうは言われても、まだ自らの思いに引きずられてミミズの上に仏のありようを見いだそうとする。そうではなくその見えるまま、そのままを受けとることが大切である。」ということです。

これはすごく奥の深い言葉ですが、私の解釈は次のとおりです。
「仏道修行などにかかわらず、剣道、華道、茶道などを含め、いわゆる“習い事”の修行(練習)をする場合、師匠の教えを“心を無にして物・事に執着せず教えを受ける”姿勢の大切さを説いている。」と解釈します。ですから、師匠が「仏とはカエルやミミズである。」と言えば、教えを受ける者は素直に心を無にして同じように「仏とはカエルやミミズである。」と心の底から信じることが大切であると説いているのです。道元禅師は極端な話しを例として上げているだけなのです。

教えを受ける時は、既存の知識や経験は邪魔になりがちです。教えを受ける場合は、受ける姿勢を謙虚にし、心を無にし素直にしてこそ100%以上のものを学ぶ(修得する)ことができるのですね。それが証拠に、師匠(先生・指導者)がしっかりしていれば子ども達の上達は早いですね〜。しかも大人より上手かったりします。それは、子ども達はいらない知識や経験がない分、すべてにおいて素直に受け入れることができるからですね。これは“学びの極意”というべきものです。
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