「死後にあの世に持っていける物」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

「死後にあの世に持っていける物のお話し」という、ブログの記事の題名としては、なんか変な長い題名になってしまいましたが、2021年末の12月29日に妻方の叔母の葬儀があり、思うところがあってこのブログの2022年1月19日に記事とし掲載しました。それを今回再掲載したのですが、少々長くなりますが最後までお読みいただければと思います。納得の内容であると思います。

日本で一番多いというか、日本人のほとんどが仏式(仏教様式)の葬儀ですが、この仏式の葬儀で、一般的に葬儀会場から火葬場に向かう前(出棺する前)に、最後のお別れということで棺(ひつぎ:棺桶)の中にお花を敷き詰め、故人の思い出の品、好きだったお菓子なども入れます。そして、仏式の葬儀では最後に必ず入れる物があります。それは「六文銭(ろくもんせん)」です。

六文銭とは、故人が「極楽浄土(ごくらくじょうど)」までの道のりで、お金に困ることのないよう棺におさめる「冥銭(めいせん)」のことです。しかし、現在は六文銭という硬貨はありません。一文銭の硬貨が6枚ということですが、この一文銭は、明治時代の初期ごろまで使用されていましたが、現在はありません。ですから今では紙に一文銭を6枚印刷したものを入れています。

六文銭は、仏式の葬儀に使われ、故人を棺へと納める際に添える副葬品のひとつです。一般的な仏教の概念では、亡くなった人は49日をかけて極楽浄土を目指すといわれています。六文銭は、その旅の途中でお金に困ることのないようにという、遺族の気持ちが込められた伝統儀礼なのです。あの世で使うお金という意味から、冥途(めいど)で使うお金、冥銭と呼ばれるのですね。

また、六文銭は、死者が旅の途中で渡ると信じられている「三途の川(さんずのかわ)」の渡し賃になります。三途の川は、現世(この世)と冥途(あの世)を隔てる川で、その渡し賃が六文というわけですね。ちなみに、三途の川の由来は、故人の生前の行いによって、橋を渡れる人、浅瀬を渡る人、深いところを渡る人の3通りの渡り方があるということからだそうです。知ってた?

一方、キリスト教ではどういう考え方なのでしょうか。まず、仏教でいうところの極楽浄土は、キリスト教では「天の国(天国)」という所になります。そして、キリスト教の天国の概念では三途の川はありませんし、六文銭のような交通費も必要ありません。それに審判する閻魔大王(えんまだいおう)もおりません。
ただし、キリスト教の教えでは、「終末(この世の終わり)」にイエス・キリストが現世に再臨し、この世のすべての生者と死者を集めて『最後の審判』を行い、天の国に入る者と、地獄に落ちる者とを選別するということになっております。ちなみに、天の国の門には使徒聖ペテロが門の鍵を持って立っておられます。

そこで、今日のブログ記事の題名の「死後にあの世に持って行ける物」ですが、カトリック教会というか、司祭(神父様)の教えでは、「生前に所有していた物は、天の国に持って行けない」ということです。自分が稼いだお金、名誉、肩書など所有しているすべての物は、一つも持って行けないのです。しかし、持って行けるものがあります。それは「生前に善い行いをした物」です。

では、生前に善い行いをした物とは何でしょうか?それは、1つ目に「隣人への愛:慈しみ・憐れみ、思い遣り」、2つ目に「隣人への施し・与えた物」、3つ目に「隣人のために流した涙」、4つ目に「隣人への赦し」です。これらはすべて天の国に持っていける……というか、持って行くことになります。しかし、自分が現世で得た物・所有していたものは一切持っていけません。

仏教は「ご利益宗教」ですが、キリスト教はご利益を求めない宗教です。自分のためではなく、「隣人のために善き行いをする」ということを大切にしているからですね。ですから、生きている間に(現世で)、善き行いを一つで多く、一つでも熱心に一生懸命に行いましょう!『最後の審判』の時には、イエス・キリストの前で、隣人への愛をどのくらい注いだのか?、隣人をどのくらい赦したのか?これは必ずや問われることになります。神様は真実な方です。私たちの傍にいて毎日その行いを見ておられます。日々の信仰生活が問われているのです。
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