三浦綾子のことば(第9日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「人間、怒ることはやさしい。だが、相手の謝罪を受け入れるということは、そう簡単にできないものだ。その証拠に、私たちは人を怒って苦しむよりも、人を赦せなくて苦しむこのとほうが多いのではないか。」
『遺された言葉』から

三浦綾子さんのことは、「三浦綾子のことば(第1日目)2020.1.8」をご覧下さい。
永遠に自戒すべき言葉ですね。
キリスト教(イエス・キリストの教え)は、「隣人への愛」と「人への赦し」を実践する宗教と言っても過言ではないと思います。私は、若い20代のころは短気で怒りやすい性格でした。回りの人から頑固だとよく言われました。今ではそんなことはないと思っていますが(⌒-⌒; ) 気だけは伸びきってしまい、少々温厚になり過ぎたようです。でも頑固さだけは今も同年代の同僚女性陣に「頑固ね!」と言われています( ̄□ ̄;)!! しかし、それは決してブレないきちんとした意思を持っているからです!話は外れましたが、聖書を読み、クリスチャン(キリスト教の信徒)になって、毎日のお祈りをとおして「赦す」ことの大切さが本当によくわかるようになりました。

新約聖書のマタイによる福音書・第18章・第21~第22節で、イエス・キリストは、弟子達の「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(「兄弟」とあるのは、兄弟という本来の意味に加えて、自分に関係する人々のことです。)」と説いています。7の70倍ですから490回赦しなさいということではなく、とことん赦しなさい、際限なく無限に赦しなさいと説いているのですね。

人間にとって罪の問題というのは、とても重要な問題です。罪を犯した人間は、罪からどのようにして解放される(赦される)のか?ということですね。それはとても切実な問題でもあるのです。誰かがその人の犯した罪を赦さなければ、その人は一生罪を背負って生きていかなければなりません。ですから、イエス・キリストは、罪を犯した人に心の底から真実に回心する(悔い改める)機会を与え、回心して洗礼を受ければ罪は赦されると説いているのです。洗礼を受けてキリスト教の信徒(クリスチャン)にならなくても、誰でも自分の過ちにいつか赦してもらいたいと思う時が必ずきます。その時に赦してもらいたいのであれば、自分も今現在において人を赦すべきなのです。それが平和な世の中を築く第一歩となるのです。憎しみや恨みでは、心の平安は訪れません。つまり、平和な世の中の訪れは「赦すこと」から始まるのです。
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