ことわざ(第12日目) [今日の言葉(ことわざ)]

「狭き門より入れ」

これは、イエス・キリストの聖句からのことわざです。「狭き門」は、現在では転じて「入学試験や就職試験など、競争相手が多くて突破するのが難しいこと」の喩えとなっていますね。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第13~第14節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

この言葉は、イエス・キリストの聖句(言葉)です。このブログに、2016年4月8日に掲載して以来となります。久しぶりの登場ですね。「狭い門から入りなさい」と言われています。この場合、広い門(道)と狭い門(道)のどちらかを選ぶ時は、狭いほうを選びなさいということですね。この門をくぐるのは“人生の選択”です。生きていく上で、誰でもが通りたがる「広い門=楽な門(道)」を選ぶのではなく、選ぶ人が少ないような、「狭い門=厳しい門(道)」を通りなさいという意味であると私は解釈しています。

私たちは、楽な方向へ楽な方向へと進む道を選びがちですね。嫌なこと、辛いこと、難しいことをできるだけ回避しながら、逃避しながら要領よく生きていきたい。これが一般的な人間の感覚だと思います。イエス・キリストの教え(キリスト教の教義)では、人への中傷誹謗、悪意、妬み、恨み、憤り、淫らな行為など、これらはすべて罪になるのですが、楽な道に進むとこれらのことを平気で行って罪を犯してしまいます。このように罪を犯した人たちが悔い改めることもなく死ぬと、死後に復活することなく滅んでしまいます。

ですから、聖書にある(イエス・キリストの教えである)「人を赦すこと。」、「自分を愛する(大切にする)ように隣人を愛すること。」、「自分が人にしてもらいたいと思うことは、何でも人にすること。」などを実践するため、自らを律して厳しい道を進むことを説いているのです。そこには身分の違いや貧富の違いなどはないのです。どんなに偉いといわれる人であっても、みんなと同じように身をかがめて狭い門=厳しい門(道)から入る。そのような人たちは、死後に復活し、天の国で永遠の命を与えられるのですね。

この教えを非常によく現したものの一つに、日本の茶道の茶室の“造り”があります。茶道を創始した千利休(せんのりきゅう)は、キリスト教の影響を強く受けています。また、利休の高弟と言われる7人のうち、5人はキリスト教の洗礼を受けていますし、利休が最も頼りにした高山右近は、敬虔なクリスチャンでキリシタン大名の第一に挙げられる人物として有名ですね。最後まで信仰を守り抜いた戦国武将でした。

利休が生きた安土・桃山時代の豊臣秀吉もその後の徳川家康も、キリスト教を厳しく弾圧しましたので、現代の茶道にキリスト教の思想を見出すことは難しいのですが、それでも茶道には聖書の教えが明瞭に込められていると言えます。裏千家15代家元・千 玄室氏は明確にこれを認めておられます。茶道のお手前はキリスト教の聖餐式(ミサ)からとられているほどです。茶道でのお茶とお菓子は、明らかにミサである“パンと葡萄酒”です。茶道では、濃茶の作法で男子同士の場合、お茶を頂いた後、茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま、左手で懐紙で飲み口を拭き次客に手渡しますが、ミサにおいても使徒がカリス(杯)を順次手渡していく所作が最後の晩餐でありました。この濃茶の飲みまわしのことを「吸い茶」と言いますが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。

ところで、その茶室の造りですが、通常、茶室には庭園が設けられます。この庭園を考案したのは、キリシタン大名の古田織部という人ですが、心身の塵を払うために蹲(「つくばい」:手を洗うもの)が置かれ、最後の晩餐の時にイエス・キリストが弟子たちの足を洗った「洗足」や「洗礼」を象徴すると言われています。その傍らに灯篭(とうろう)が置かれ、火が灯されます。これは教会のミサでのローソクそのものです。
そして、独りしか歩くことができない「飛び石」が打たれます。それは、「狭き門」に至る狭い道と言われています。そして、茶室の入口(「にじり口」と言います)ですが、これは千利休が考案したものです。本当に小さくて、身体一つしか通れないように狭く、身を低くして入るようになっています。これは「世にあって身につけたものをすべて捨てて、謙虚になって茶室に入ること。そこには身分の違いも何もない。」ということを具現化したものです。聖書にある「狭き門」を現しているのですね。
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